TOP 怪しいインターネット児童ポルノ規制法案

規制に関する私の考え

http://homepage1.nifty.com/kito/maukie.htm から借用
私は、日本は、児童への性的虐待を防止する文化を持っていると思っています。 その文化により、日本は児童への性的虐待が欧米に比べて極端に少ない国 になっているのではないかと思っています。 その文化とは、 親が子供にお風呂への入り方を教えるために 子供と一緒にお風呂に入る という文化です。 この日本の文化は、 欧米人が、種痘(ワクチン)が病気を起こすと思って、 欧米人が種痘(ワクチン)治療の開始に難色を示したのと同じように、 欧米人にこの日本文化が忌みきらわれているようですが、、、 私は、ポルノと性犯罪との関係を調べていった結果、以下のように考えるようになりました。 以下に、私の考えを書きますので、誰か、この仮説の正否を検証してくれないかと思っています。 思春期の青少年に対して性の扱いを一歩誤れば大変な害を及ぼすと思います。 一番害を与えるのは、思春期の青年に「性はいかがわしいもの」という思いを与えることだろうと思います。 そういうふうに思うようになった青少年は、性をとても乱暴に扱うようになると思うからです。 それで、大人が、「性はいかがわしいから取り締まる」と言ったら、 思春期の青少年に与える害ははなはだしく大きいと思います。 また、思春期の青少年自身も、性をそのように「いかがわしいものではないか」と考える傾向性もあると思いますので、 性はそうでは無くて、性は大切なものだからぞんざいにあつかわないよう、 大人が、性を大切に扱ってみせなければならないと思います。 いかがわしい性表現は、「性を大切に扱う」という観点から青少年には見せたくないものです。 しかし、青少年が性に興味を抱くようになったら、その微妙な心をこわさないように、 青少年のプライバシーをとても大切にしなければならないように思います。 たとえば、青少年がいかがわしい(と思われる)ものを見て、それを隠しているなら、 そのプライバシーは守ってあげなければならない、と私は思います。 いかがわしいと見えるものも、それをいかがわしい思いで見なければ、いかがわしくは無いのではないかとも思います。 性に無知な思春期では、単に性の対象を見るだけでは、さほど害を受けていないのではないか (そもそもいかがわしいものでは無いのではないか)と思います。 問題は、そういうものをいかがわしいと思いながら、見ることにあると思います。 そうなるのは、大人が、それを「いかがわしい」と教え、 更に、それらを「いかがわしく見る見方」 (例えば、性衝動を反社会的行為により満足させようと考える) ように仕向けることで、 本当のいかがわしさが始まると思います。 機械的に性表現を規制するのは、 性に関して無知な青少年に、 先ず、「性は全ていかがわしい」と先入観を与えることになると思います。 そうなれば、青少年にとって、性について考える事はいかがわしい行為になってしまい、 性と他のとても悪い事(暴力など)との区別がつかなくなる害悪が与えられるのではないかと思います。 それこそが本当のいかがわしさと思います。 そのため、性規制をすることは害がある(まだ仮説段階ですが)のではないかと思います。 (この仮説はポルノの強力効果論を否定する論拠によっては否定されないと考えます) そうでは無くて、性はいかがわしくなく、 性とは、性の相手を思いやるように成長するべきものであって、 大切なものであると教えることが大切と思っています。 欧米では、親が子供とお風呂に入る日本の習慣がとてもいかがわしいものに見えるらしいです。 そう思うことこそ、心がいかがわしい (子供の扱いが分かっていない、子供を性の対象として見る心がある) のではないかと思います。 日本では、自分の子供をお風呂に入れた親は、他の子供に対しても、 子供を性の対象にすることにはとても大きな心理的障壁を感じるようになると思います。 また、子供も、そういうことをしないのが常識として心に刷り込まれると思います。 この日本の文化は守っていきたいです。 私は、規制については、国が規制するやり方(不健全と思います)では無く、 見る(読む)者の自主的判断で見るサイトを選択することが必要と思っています。 (それぞれのユーザーが、便利と思うならば、自分に合ったフィルタリングソフトウェアを選別して購入して、 自身で使用するなら健全だと思います。) インターネットは一般社会と同じで、 ゴミも(インターネットはゴミだらけと言われていました)良いものも悪いものも、 多くあります。 そういうインターネットに無防備に参加するものではないと思います。 インターネットを規制すべき判断基準は、 「悪いことを教える人には近づかないように」 ということだと思います。 「ワイセツ画像については、そういうものを好んで掲載するようなサイトを運営している人はろくな人では無いと思うから そのようなサイトには入らないこと、 スパイウェアやウィルス等を送るつけられる恐れがあるから。」 と判断しています。 また、一見聞こえの良いキャンペーンを進める人や団体も、 その人の本質はどういう人なのか調べてから信用すること。 という用心も必要と思います。 児童ポルノ規制も、インターネットフィルタリングも、その建前は見栄えが良かったのですが、 その本質は、その言葉とは逆な方向を向いているように思います。 「インターネットは、無防備に参加するものでは無い」 ということについて、さらに意見を述べます。 インターネットは危険なので、参加する人は自分を守るため、 匿名(自分の氏名や住所電話番号は決して書かないこと)で参加すべきと思います。 むかしからパソコンでインターネットに参加している人には常識だと思うのですが、 携帯電話で、無防備に、インターネットに参加する青少年には、この「常識」が守られていないようです。 あろうことか、プロフィールと称して、自身の個人情報を掲載することが流行したりしているようです。 とんでも無いことと思います。 インターネットで何を言われても、正体のわからない相手に自分の個人情報を言うものでは無いです。 また、良く知っている相手との会話でも、世界中だれでもが見られる掲示板に自分の個人情報を掲載するものでは無いと思います。 この「常識」を守れない人は、一切の掲示板への書き込みは止めた方が良いと思います。

(参考)ポルノの強力効果論は否定されている

「児童ポルノを見る者は、いずれは児童に実際に性的虐待をはたらくはずである(あるいは潜在的な性犯罪者である)」という強力効果論的な主張がなされることも少なくない[125]。 しかし、このような表現物と行為とを同一視する主張に対しては、同様の論法で、犯罪性の高い行為を題材にした表現物を鑑賞する者は潜在的な犯罪者である、という主張も通ることになるとの反論も存在する。 たとえば、「レイプを題材にしたアダルトビデオを観る者は潜在的な強姦犯である。あるいは、いずれは実際に強姦事件を起こすはずである」「痴漢もののアダルトビデオを観る者は潜在的な痴漢犯罪者である」「猟奇殺人を題材にしたスプラッター映画を観る者は潜在的な殺人犯である」という論法が通じれば、「テロを題材にしたアクション映画を観る者は潜在的なテロリストである」という主張も通ることになる、との反論も見られる[126]。 そもそも、ポルノと性犯罪との因果関係を肯定し、ポルノがその鑑賞者を性犯罪者に変化させる力を有するとする強力効果論は、ポルノが、無数に存在する引き金の一つに過ぎず、しかも、もともと犯罪的な傾向の強い人間に対してしか引き金として機能しない、とするクラッパーの限定効果説によって、学問的には退けられている[127]。 [125] たとえば、ラディカル・フェミニズムを代表する法学者であるマッキノンは、ポルノグラフィ全般について、「ポルノグラフィを見る人は、やがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ」などと主張している 『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』(明石書店) p.36 [126] 無論、テロと性犯罪では全く性質の異なる犯罪であり、単純比較できない事は言うまでもないが、発生した場合どちらが『より治安や市民生活に脅威を与えるか』は明白であり、性犯罪を発生原因(上記の論法を引用すれば、その行為を題材とした創作物)から徹底的に取り締まる一方で、大量破壊、大量殺人、果ては国家の存亡にも関わるテロの発生原因(となる筈の創作物)は『野放し』では、治安維持の観点から完全な本末転倒であるという意見もある。 [127]論座 2001年3月号 元原稿 - 宮台真司 ■社会環境対策基本法に関しての議論でも、同種の光景がまま見られます。議員たちは口々に「暴力的なメディアが子供を暴力的にする」という趣旨のことをわめいていますが、学問的にはまったくのナンセンスです。だからそれを理由にして立法することはそもそもできない相談です。ところがその不可能なことがまさにまかり通ろうとしているのです。 ■右の主張は、マスコミ効果研究の分野で「強力効果論」と呼ばれる仮説ですが、すでに八十年間の長きにわたり繰り返し調査が続けられ、一貫して棄却されつづけている。代わりに実証されているのは「限定効果論」と「受容文脈論」です。限定効果論とは、初めから暴力的な性質を持つ者がメディアによって引き金を引かれる可能性があるとする説です。 ■引き金を引くのだって悪いじゃないかと思うかもしれない。ですが最初に限定効果論を提唱したクラッパーがいうように、メディアが引き金を引かずとも、いずれ別の何かが引き金を引く。メディアだけを論じることは重要な問題を覆い隠すことになります。それだけじゃなく、メディアが引き金を引くかどうも受容文脈で変わってくるのです。
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